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福岡高等裁判所 昭和44年(う)336号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役二年六月に処する。

押収してある短刀一振(原審昭和四四年押第七号)はこれを没収する。

理由

本件控訴の趣意は、検察官渡辺芳信提出の控訴趣意書(同疋田慶隆名義)記載のとおりであり、これに対する答弁は弁護人石橋重太郎提出の答弁書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

同控訴趣意第一点(事実誤認)について

原判決は、被告人に対する殺人の公訴事実に対し、殺意が認められないとして、傷害致死の事実を認定しているけれども、被害者の左胸部には深さ約一七、五糎と九、五糎に及ぶ二個の刺創、右胸部に二個の擦過傷が認められ、右刺創の部位、態様よりみても、被告人が原判示刺身包丁をもつて、積極的に被害者の胸部を力一ぱい突き刺したことは明らかであり、且つ被告人が司法警察員に対し、被害者の仕打ちに腹立ちのあまり突いた旨を述べているところによつても、被告人が憤激のあまり殺意をもつて本件犯行に及んだことは明らかである。しかるに、原判決は右の証拠に現われる客観的事実に眼を蔽い、被告人の公判廷における一方的な弁解を、そのまま採用し、事実を誤認したものであつて、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄を免れないというにある。

よつて検討するに、原判決が殺人の本件公訴事実につき、被告人の殺意を否定し、傷害致死の事実を認定していることは所論指摘のとおりである。

そこで、本件記録並びに原審取調べの証拠を検討し、且つ当審における事実取調べの結果を参酌し、右殺意の有無を考察すべきところ、

(一)  原判決は本件犯行において、被告人は刺身包丁(原審昭和四四年押第七号)で、兄信行を突き刺した旨認定するのであるが、右刺身包丁は明らかに短刀と認めるのが相当である。因に、右の短刀は司法巡査の差押調書では鞘付手製小刀、起訴状では短刀、原審第一回公判調書及び領置品目録では刺身包丁とそれぞれ異なる記載がみられるが、事物の名称は現在の実体に対応すべきものである。なるほど、被告人の司法警察員に対する供述調書によれば被告人が刺身包丁に加熱し、これを打直して製作したものであることが認められるけれども、何人が作り又は素材が何であれ、現に、刃体の長さ一七糎、切先から柄頭まで二九、五糎、鞘込みでは三四、四糎のあいくち様の短刀に作られ、現在の形状及び機能では全く短刀であることが一見明瞭である。しかして、短刀はいうまでもなく人を殺傷する道具であつて、刺身包丁の如く日常の生活用具とは異なり、これを所持又は使用にあたり、おのずから殺傷的表象を随伴せしむるものである。

(二)  ところで、原判決の認定によれば、被告人は右の短刀をもつて信行をおどすつもりであつたというのであるから、右短刀が殺傷の用具として、相手に対して死傷の兇器たることを示し得ることを考えて、おどしに使用したものであることは明らかである。言換えれば、これを武器として現実に相手を突き又は斬るときは、傷害のみではなく死亡の結果を惹起し得べきことを考えるだけの余裕を有していたものである。そして、右短刀を威嚇のみに用い殺傷の用具として現実の攻撃に使用しないということは、殺意否定の心的状態にあつたことを示すものである。つまり、短刀をもつて相手を突き刺すことなどによつて、おのずから予見される傷害、場合によつては死亡するかも知れないという結果が現実的攻撃に対する抑制として働いていたことを示すものである。

しかしながら、このことは死傷の結果を全く予見し得ない場合とは事情を異にする。言うまでもなく、被告人においてはその予見が現存し、該予見があるが故に、相手を怯ませるだけのおどしに使用しようとしたのであり、また、実際に突き刺すことを抑制されていたのである。

(三)  次に、原判決の認定では、被告人は信行の左胸部を二回突き刺し、左肺動静脈の切断による失血のため即死させたというのであるが、後記証拠を総合すれば、被告人が右の如き烈しい攻撃に移つたのは、信行に対する憤激によるものと認められる。しかして右の烈しい刺突は、前示殺意否定の心的状態を更に否定するものであり、被告人が予見に伴う前記抑制を憤激のため、もはや持続することができず、右抑制から解放されたとき、その行動は自動的に予見的方向に赴く以外にはなく、現前の相手が死ぬかも知れないことを当然予見し得ても、右の憤激を満足せしむるため、既に衝動化した行動を阻止するに足りなかつたことを示すものに外ならない。

(四)  即死せる信行の左胸部には深さ一七、五糎と九、五糎の二個の刺創があり、死因は右刺創による左肺動静脈の切断に伴う失血と認められるところ、二回にわたる同じ左胸部の刺突であること、刺創の部位は身体枢要部にして、刺創の深さは刃体一七糎の短刀の柄まで達するものであることからみて、左胸部だけを目掛けて連続的に柄まで通れと力をこめて突き刺したものと認めるのが相当である。

(五)  以上の認定を総合すれば、被告人は信行を突き刺す際に、同人が死ぬるかも知れないことを予見しながら、あえて左胸部を狙い力をこめて突き刺したものと認められ、少くとも未必的な殺意を是認し得べく、これと相容れない被告人の原審及び当審における供述部分は措信しがたく、原判決が互に揉み合いとなるうちに思わず突き刺したかの如く認定し、殺意を否定したことは、事実誤認というべきである。そして、この誤りが判決に影響すること明らかであるから、その他の控訴趣意(量刑不当)に対する判断を俟つまでもなく、原判決は破棄を免れない。そこで、刑事訴訟法三九七条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い、更に自ら判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、生来粗暴な実兄重松信行(当時三七才)の同居せる母セキ子に対する仕打に、日頃から苦慮していたものであるが、昭和四三年一二月二九日午前一一時三〇分頃、右信行が些細なことから母や被告人らを殴打し、更に母に対して「死んでしまえ」などとののしつたことを聞くに及び、同日午後零時二〇分頃福岡県直方市大字下境日焼の右信行方に赴き、同人に対し母に対する仕打を難諾し「親を苛めるならこの家から出て行つてくれ」と言つて帰りかけた際、これに立腹した同人から同家六畳の間において「なめたことを言うな」と怒鳴りつけられたうえ、いきなり顔面を数回殴打され、更に投げ倒されて胸部を数回蹴りつけられたため、咄嗟にタンスの上に置いていた短力(原審昭和四四年押第七号)を取り、これを突きつけて威嚇しようとしたところ、同人は少しも怯むことなく、かえつて立向つて来たので、憤慨のあまり、同人が死ぬかも知れないことを予見しながら、あえて右短刀をもつて同人の左胸部を目掛けて続けざまに、力をこめて二回突き刺し、左肺動静脈切断による出血のため、同人を即死せしめて殺害したものである。

(証拠の標目)

原判決の証拠の標目欄に列挙せる各証拠(但し押収してある刺身包丁一本とあるは押収してある短刀一振と訂正する)をここに引用するほか、当審検証調書。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するので所定刑中有期懲役刑を選択し、なお犯罪の情状憫諒すべきものがあるので、刑法六六条、七一条、六八条三号により減軽した刑期範囲内で被告人を懲役二年六月に処し、押取してある短刀一振(原審昭和四四年押第七号)は判示犯行の用に供した物件で犯人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号二項によりこれを没収し、原審及び当審における訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

よつて、主文のとおり判決する。

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